ブログが新しく生まれかわります!!
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こちらのブログを終了し、新しくブログを始めることとなりました。
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名前:海外サポートオフィス:【アメリカ】サンフランシスコ:代表 森田 雄二です。
誰でも一度は訪れたい街サンフランシスコ!!
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車に乗っている時間が長いのでCDを感度の良い音声で聞こうとカーステレオ、スピーカーを変えてアンプとベースを入れました。ウーン、これで全てが変わりました。好きな音楽を聴くというのは素晴らしい時間です。聞いていると渋滞も気にならなくなりました。何度も同じ曲を繰り返し聴いて満足しています。さて、Celtec WomanのA New Journeyという新しいCDとDVDを購入したのですが全体的に見る(聞くと)最初のと比べると力が入りすぎているような気がしました。ただ、何度も聴く内に好きな曲が見つかり今ハマッテいます。その中でもThe Voiceという曲をLisa Kellyが歌っているんですけど、コレは素晴らしい!彼女は上手ですネ。(皆旨いけど)何度聴いても飽きません。http://www.youtube.com/watch?v=sfO6JpR5Ip8是非聴いてみて下さい。そしてこの英語を理解してみて下さい。楽しみ方が2倍になります。
MSNからの記事ですが、感動して目頭が熱くなりました。
かなり長い記事なのですが是非読んで下さい。
2つの「みせる」鉄腕からのメッセージ
平成14年11月24日、島原キャンプ記念碑前に集合する西鉄ライオンズOB会のメンバー。記念碑右横が稲尾氏
◇いよいよプロ野球が開幕
いよいよプロ野球が開幕する。24日にはパ・リーグ、そして30日にはセ・リーグのし烈なペナントレースが幕を切る。野球ファンのみならず、稲尾にとっても1年でもっとも楽しみな瞬間である。だが、今のプロ野球界にはさまざまな問題が山積している。一流選手のメジャー流出など今後の球界の在り方が問われている中で、西武の裏金問題も明らかになるなど、厳しい1年になりそうだ。「鉄腕」稲尾のプロ人生50年を記念して栄光と挫折の歴史を振り返ってきたが、最終章は稲尾から現役選手たち、そして球界へのメッセージとしたい。
稲尾 言い尽くされているかもしれないが、プロ野球というのはファンあってのプロ野球ということを、選手たちにはいま1度しっかりと考えてもらいたいんだな。これはプロ野球というものがスタートしたときから変わることのないものなんだけど、それを今、選手たちがどう受け止めているだろうか、と思ってしまうんだ。時代は変わったけど、ファンあってのプロ野球というのは不変だから。そのことを選手自身がどれだけ自覚できるかなんだ。
プロに入ったら一線で活躍したい、そのためには努力しなければならない。こんなことは当たり前なんだ。プロ野球には「見せる」と「魅せる」という2つの「みせる」がある。プロとしてのプレーを「見せ」て、ファンの人たちを「魅せる」(魅了する)わけだ。この2つを実現するためには死に物狂いで努力しなければならない。成長しない選手は「自分」だけしか見ていない証拠なんだな。「自分の技術」「自分の体力」だけに視点がいっている。それはアマチュアの世界であって、プロは同時にどれだけファンを魅了できるか、ということが大切なんだ。自分の技術向上だけを考える選手はまだまだプロとしては初期の段階。さっき言った「見せる」と「魅せる」は相乗効果にもなっているんだ。ファンに「見せる」プレーができたら、ファンを「魅せ」られる。じゃあ、次はもっとファンを魅了したい-。ということは「見せる」プレーも、もっと向上するし、ファンの満足度ももっと上がる。これが好転のサイクルとなっていけば超一流選手の道が開けるし、ファンに対してもこれ以上ない喜びを与えられる。だから私は「ファンあってのプロ野球」と言っているわけだ。
私事で申し訳ないが、現役時代は酷使されたんじゃないかとかよく言われる。でも、それはまったく違う。ブルペンに向かって歩いて行っているときにスタンドのファンから「稲尾頑張れ!」と声が飛ぶ。あの声援は私をゾクゾクさせたし、気持ちが乗って行った。確かに肩が張っているときだってある。でも、ファンに乗せられたものだ。正直言って、私が活躍できたのはファンのおかげ。ファンの声援に成長させてもらったと今でも思っている。
甲子園にも出ていない別府の無名の高校生が「鉄腕」と言われるまでになれたのはお世辞でも何でもなく、ファンがいたからこそ。ファンの声援がグラウンドの「父親」となって私を育ててくれたと、感謝している。
現役の選手たちにしっかりと胸に刻み込んでもらいたい「鉄腕」の言葉である。(終わり)【佐竹英治】
◆稲尾和久(いなお・かずひさ)1937年(昭12)6月10日、大分・ 別府市
九州移転条件にロッテ監督
1978年10月12日、クラウンライターの中村オーナーは球団譲渡契約に調印する。左は堤国土計画社長
◇最後のユニホーム姿
稲尾の最後のユニホーム姿はライオンズではなく、オリオンズとなった。84年から3年間、稲尾はロッテの監督を務めた。稲尾が中日の投手コーチだった78年10月にクラウンライター・ライオンズは西武への球団譲渡を発表。九州からプロ野球チームは姿を消した。中日の投手コーチを3年務めて、福岡に戻った稲尾を待ち受けていたのは「球団誘致運動」だった。
「『返せ返せライオンズ』という歌があったように、ライオンズが移転してからは、九州にプロ球団を誘致できないか、ということになった。福岡の青年会議所を中心に署名活動も行われたし、実際、オレも九電の会長だった瓦林さんや、ロイヤルの江頭さんら、財界の人たちに相談した。最初はどこかの球団を買収するしかないと思ったけど、最終的にはフランチャイズを移す方法しかない、ということになったわけだ。そしたらロッテが九州移転を考えているということで、それに乗ったわけだ」。
球団誘致については稲尾も四方八方、手を尽くしたようだ。当時のセ・リーグ鈴木龍二会長からセ8球団への拡張計画も知らされ、球団経営に色気のありそうな企業なども個人的に当たったようだが、最後はロッテのフランチャイズ移転話に乗る格好で監督を引き受けることになった。球団を九州に移すということが条件の監督就任である。
結論から言えば、稲尾はロッテの監督を3年間(84~86年)務めたが、球団は九州には来なかった。移転作戦は失敗に終わるわけだが、稲尾がロッテ監督を辞任してから2年後、福岡に南海を買収したダイエーが「ホークス」を連れてやってきた。今はダイエーも球団を手放し、球団の親会社はソフトバンクとなったが、ホークスは実力、人気ともに球界トップのチームに成長した。何としても福岡にプロ野球球団をもう1度、という稲尾の思いは結果的に結実したことになる。
◇稲尾の人生のキーワード
「オレたちが戦った平和台はなくなってしまったし、球団もライオンズではなくなったけど、福岡には野球ファンがいる。オレには福岡にプロ野球チームとファンがいることが一番なんだよ」。
現役時代はチームのため、ファンのために投げ続け、西鉄ライオンズの3年連続日本一に貢献。個人成績でも不滅の42勝など数々のタイトルを手にしてきた鉄腕が、引退後は弱体化するチームのかじ取り役を任され、揚げ句の果ては球団は身売り。博多からチームが去ると、今度は誘致のためにフランチャイズ移転作戦のためライオンズ時代の敵でもあったロッテの監督に就任。稲尾の人生のキーワードは博多であり、福岡であり九州だった。
「肌なんだろうな。その土地の気候風土にあっているというと簡単だけど、九州から出ようとは思ったことがないなあ。中日、ロッテに行ったときも球団から『こっちに住みませんか?』と聞かれたけど、住む気なんてなかったからなあ。おやじが言っていた『海の住人、海から出て海に帰る、山の住人、山から出て山に帰る』じゃないけど、肌が九州に染まっているんだな」。【佐竹英治】
◇西鉄OB中西太氏の鉄腕評
「監督、指導者としてはいろいろ無理な状態で、非常に苦労の時代だったからかわいそうだったけど、それはその人がたどる運命。まあ、監督よりもコーチになった方が彼には合っていたかもしれんな。私とは4歳違いで、かわいい弟みたいなもんだよな。私が寮の部屋長をしていたとき、稲尾は寝かしといたらいつまでも寝とったし、厳しい先輩にも、ものおじしない強さがあったなあ。とは言っても、人との接し方は素直だしな。漁師のオヤジさんに育てられた環境もあっただろうけど、しっかりした人間やね。余分なことは言わないしね。今でもそういう子は育つよ」
74年「これで本当に休める」
1973年の太平洋クラブライオンズ時代の稲尾監督(平和台球場)
◇72年球団譲渡
西鉄に生まれて西鉄で育った「鉄腕」がついに母体を失うことになった。監督3年目のシーズンオフ。1972年(昭47)10月27日、西鉄が球団譲渡を発表した。厳しい経営状況から絶えずうわさはあったが、ついに現実のものとなってしまった。ロッテのオーナーだった中村長芳氏が新オーナーに就任し、太平洋クラブライオンズという新球団に変わった。稲尾は監督を引き継いだが、不安は募った。3年連続最下位という屈辱の監督生活ではあったが、浮上の手応えは感じつつあった。東尾、河原、柳田らの若手選手が芽吹き始めていたし、何より稲尾自身に「監督」としての自覚が芽生えていた。
「今置かれている環境の中でどうするか、というふうに考えられるようになっていた。監督2年目は38勝に終わった。口が裂けても選手たちには言えなかったが、シーズン1人で42勝したのに、それにも至らなかった。選手の責任ではなくてオレ自身が脱皮したかった。最悪の状況の中からも東尾らが出てきていたしな。この戦力をしっかりととらえることで、ようしやってみようという気持ちになっていた。そしたら身売り。また一から出直しか、と」。
◇一から出直し
経営母体を持たなかったため、太平洋クラブは2年でクラウンライター・ライオンズに改称する。稲尾は太平洋の2年間、チームを率いたが73、74年はともに59勝64敗(7分け)、勝率4割8分で4位というまったく同じ数字に終わる。西鉄から通算5年間のライオンズ監督成績は常に借金生活。厳しい球団運営と歩調を合わせるように戦績も振るわなかった。というよりむしろ、戦う以前のチーム運営だった。太平洋時代はロッテとの遺恨試合を演出したり米国風のファンサービスを取り入れたりとファン獲得に力も入れたが、経営の好転はなかった。
「メーンはもちろん、試合なんだが、親子デーやアベックデー、夫婦デーなんかをつくって観客動員に躍起になった。試合だけじゃなく、球場に来てお客さんを喜ばすエンターテインメントというか、サービスする姿勢はあったな。ロッテ金田監督との乱闘シーンをポスターにしたり、ちょっと行き過ぎもあったけどな」。
74年。稲尾は選手14年、監督として5年間の計19年間在籍したライオンズのユニホームを脱ぐことになった。
◇3年間の勉強
「未練も何もなかった。正直言ってこれで本当に休めるのかな、と思った。今までのようにいろんなことに神経を使わなくていいと思った。ゆっくり休もう、そう思った」。
75年から3年間、野球評論家としてネット裏から野球を見守った。75年春には米国に渡り、ドジャースのキャンプも見た。ネット裏からの3年間でセ・リーグの野球もしっかりと目に焼き付け、各球団のキャンプにも足を運んだ。
「あの3年間は勉強になった。自分のチーム以外、キャンプなんて見たことなかったし、本当に新鮮だった。もう1度、監督として勝負したくなったもんな」。
78年、稲尾の元に中日から投手コーチ就任要請が来た。初めてセ・リーグで働くことになった。竜投を育てた3年の間に、ついに福岡から愛するライオンズも消えてしまった。【佐竹英治】
「黒い霧」一掃のため監督就任
69年10月8日、暴力団の野球賭博に絡んだ八百長行為が発覚し会見する西鉄・中西太監督(左)と国広直俊球団社長
◇69年秋に突然
プロ野球OBによる「マスターズリーグ」は今年1月で、発足から6シーズン目を終えた。札幌、東京、名古屋、大阪、福岡の5球団で組織され、プロ野球のオフシーズンとなる11月から翌年の1月までリーグ戦形式(計20試合)で熱戦が繰り広げられた。稲尾はマスターズリーグの発足から携わり、6季連続で福岡ドンタクズの監督を務めている。残念ながら、今年も稲尾の大きな体が選手たちの手で宙を舞うことはなかった。今季は名古屋が初優勝し、5チームの中で唯一、V経験がないのが稲尾率いる福岡だけとなってしまった。
「発足から6年目でやっと浸透してきた感じ。選手たちも開幕前にはきちんと動いてきているし、オールドファンを魅了しているんじゃないかな。プロ野球をリタイアした選手たちが、国元に帰って、それぞれの仕事をやりながら生活しているけど、そういう選手にとってもマスターズリーグに参加することは1つの大きな励みだと思う」。
今シーズンが終わったとき、稲尾はしみじみと話した。シーズン前には稲尾も「胴上げ」を夢見てスポーツジムに通い、体を絞る? のだが、悲願の初Vはまた今秋以降に持ち越しとなった。西鉄の大エースとして君臨してきた「鉄腕」にとって、V逸には毎年歯ぎしりしているようである。負けて悔しがらない指揮官はいない。稲尾も勝負師の本能は70歳になっても衰えることはないようだ。さてマスターズリーグでの「悲願達成」は来季の楽しみとしよう。だが、ドンタクズで苦節を続ける稲尾の姿は、現役引退後の指導者生活での苦難をついつい想起してしまう。
◇中西氏の辞任
69年シーズンで現役生活にピリオドを打った稲尾に「引退試合」のセレモニーはなかった。稲尾自身は翌年も現役を続行するつもりだったからだ。それが、シーズンオフに中西監督が突然の辞任。球団側の最後の頼みの綱は「鉄腕」しかいなかった。秋には球界を揺るがすことになった野球賭博に絡む、いわゆる「黒い霧事件」が発覚。炭鉱の閉山も相次ぎ、西鉄本社はモータリゼーションの大幅な変化も相まって経営は右肩下がりの状況に陥っていた。
「とにかく本社に来てくれ、監督やってくれだった。寝耳に水だよ。時代も景気が落ち込んでいるし、その中で西鉄ライオンズも凋落(ちょうらく)していく。かつての剛腕、鉄腕稲尾でお客さんを呼べるような状況じゃなかった。それに黒い霧事件が発覚した。戦う以前の問題だった。選手時代は経験したことのないことばかりだった。監督というのは勝つためにチームづくりをするのが仕事だけど、スタートからそれ以外のことばかり。とにかく正常な状態にすることだけは頑張ろうと思った」。
◇本社へも意見
監督就任は69年の11月。最大の就任条件は黒い霧の払しょくで「球団側に徹底的にクリーンにする姿勢があるか」だった。稲尾は監督を引き受けるに当たって本社の役員会にも出席し、そのことを訴えた。だが、シーズンオフから翌70年シーズンまでチームはどっぷりと「黒い霧」に包まれた。初タクトとなった70年は開幕間もない5月に前年秋の永易選手に続いて、与田、益田、池永の3選手が永久追放になった。
1年目は43勝78敗(9分け)、勝率3割5分5厘で6位。結局西鉄ライオンズを3年間率いて最下位から抜け出すことはできなかった。2年目は38勝84敗(8分け)。ライオンズ史上最悪の勝率を記録した。栄光の歴史を覆いつくした「黒い霧」は球団身売りという形で終幕を迎えることになってしまった。【佐竹英治】
◆黒い霧事件 1969年(昭44)10月、プロ野球選手の八百長事件関与の疑惑が浮上し、西鉄ライオンズの選手が関係していたことが発覚した。翌年5月、コミッショナー委員会の諮問会で、西鉄では池永投手ら4人が永久失格処分を受けた。スター選手と暴力団員との「黒い交際」が相次いで表面化。西鉄オーナー辞任など社会的事件に発展した。池永投手については西鉄OB会らが主導となって「復権会」が発足し、嘆願書提出や署名運動などの活動が行われ、05年4月に日本プロ野球組織(NPB)が処分を解除し、35年ぶりの復権を認めると発表した。
逆療法で鉄球投げたが・・・69年引退
68年、64年に肩を壊し復活した稲尾和久(右)はこの年9勝を挙げ、中西太監督に迎えられる
◇痛み消えた
肩の痛みを残したまま、稲尾は65年を迎えた。杖立、指宿温泉でのリハビリの成果はあったが、肩の違和感は消えることはなかった。65年元日。稲尾はランニングに出かけた大濠公園で半年ぶりにボールを握りキャッチボールをしてみた。まだ、肩に引っ掛かりがあった。
「前年の7月から全然投げていないし、まだ肩がピクッとした。ああ、やっぱりまだ違和感があるなあ、と思った。どうしたら治るのか。素人の考えることは恐ろしい。1週間くらいたって、知人に頼んでボールと同じ大きさで、ちゃんと縫い目の形もある鉄球を作ってもらった。ボールを投げて痛みがあるのなら、それ以上の痛みを与えれば、ボールを投げるくらいの痛さは気にならないのではないか、と思った。鉄球を投げて肩を悪くするかもしれないけど、何もしないで悪いままなら、やってみようと」。
痛みを忘れるためにそれ以上の痛みを与える…。荒療治と言ってしまえばそれまでだが、何ともサディスティックな発想で再起に賭けた。出来上がった鉄球を5メートルほどの距離から投げてみた。あまりの痛さに涙が出た。自宅があったビルの駐車場にマットを置いて鉄球を投げ続けた。鉄球投球はキャンプに入っても続けた。痛みと格闘しながら、最後の望みとばかりに投げ続けた。
「キャンプでも旅館の庭で毎晩投げた。その頃は10メートルくらいの距離を投げていたけど、それでも肩は痛い。そしたら、15日くらいだったかな。突然、痛みが消えたんだ。慌ててブルペンで捕手を座らせて投げてみた。痛くない。信じられない気持ちでボールを投げたよ。でもな、痛みはなぜか消えたんだけど、昔の球威はなかったな」。
◇球威戻らず
栄光の8年間との決別を決意しリハビリに励んで7カ月。稲尾は復活の手応えを得た。復活勝利は6月5日の東映戦。8安打5失点の投球内容だったが約2年ぶりの白星を手にした。8年間で234勝を稼ぎ出した男が苦難の末につかんだ1勝だった。
「1つ勝つということがこれだけ大変なことなのか、と思った。でも、復活勝利の記憶はないんだよな。1勝するまでに投げられたという思いの方が強かったから」。
栄光と挫折。栄光だけの人間はいない。神様、仏様にも試練の日々があった。この年、稲尾は38試合に登板し、13勝6敗、防御率2・38の成績を残した。ちょうどプロ入り10年目。28歳のシーズンだった。翌66年は11勝10敗。防御率1・79で最後の勲章となる防御率タイトルを獲得した。復活から2年連続で2ケタ勝利を挙げたが、年とともに「鉄腕」の投球からはかけ離れていった。67年は8勝9敗、68年は9勝11敗。そして最後のシーズンとなった69年は1勝7敗の成績に終わった。肩を壊した64年から6年間で通算42勝に終わった。61年1シーズンで稼ぎ出した白星の数と同じである。
◇6年間42勝
「オレの目標は300勝だった。肩を壊してからの6年間で挙げた42勝は日本記録の数字と同じ。結局は通算276勝で終わったんだが、300勝まで残り24勝…。オレの背番号と同じ数字なんだよな。これも何かの因縁かな」。
プロ14年間で756試合3599イニングに登板し、276勝137敗。通算防御率1・98。恐るべき数字を残して鉄腕はグラブを置いた。【佐竹英治】
64年6戦・・・「チームのため」とは
旅行先で和田捕手(左)とそばをたいらげる稲尾
◇栄光は捨てる
プロ入り8年で234勝を稼ぎ出した「鉄腕」は64年シーズン、1勝も挙げられなかった。6試合に登板し、0勝2敗に終わった。たった11回1/3を投げただけだった。前年から続いた肩の違和感は春が来ても取り除かれることはなかった。
「シーズンが始まったら、焦った。『早く治さないと』と気持ちばかりが焦ってしまった。結局64年は6試合しか登板できなかったけど、7月までそんな気持ちでずっといたからすべて中途半端になってしまった。これまで8年間活躍したプライドを背負っていたし『何とかしなくちゃ』とばかり思ってしまったんだな」。
焦る気持ちに踏ん切りをつけたのは「栄光」との決別だった。「これまでの栄光は捨てよう」。稲尾はようやく7月になって気持ちの整理をつけた。
人生最大のターニングポイントとなった64年シーズンを振り返って稲尾は言う。
「最後の優勝となった63年シーズンで、肩の違和感があったけどチームのために投げた。大逆転の優勝となったけど、その時点では優勝できたからチームのためにはなったのだろう。でも、それは短いスパンで見た場合。その年の優勝には貢献できたから。でも、本当の意味でチームのため、というとどうだろうか。結局、翌年から勝てない投手になってしまった。長いスパンで見るとチームのためになっていないんだな。今となって振り返ってみたら、大きな矛盾に気づくんだが、その時点ではそんなことは考えられない」。
◇今でも投げる
しんみりとした口調でそう話す稲尾に続けて聞いてみた。
―もし今、現役の投手として、63年と同じようなシチュエーションになったら
稲尾 オレが選手としてまた同じようなパターンになったら? 治療するか、投げるか? うーん、やっぱり投げるんやろうな。さっきの話とはまた矛盾するかもしれないけど、投げてくれと言われれば、投げるやろうなあ…。
稲尾はやっぱり稲尾だった-。
7月から苦闘が始まった。熊本・杖立温泉に1人こもった。毎日山に登って空を眺めた。「このまま野球ができなくなったらオレには何があるのだろう…」。約1カ月、温泉につかり、山に登って肩を癒やす一方で、稲尾は自身の「心」と戦った。真っ青な夏空を眺め続け、背負ってきた栄光、プライド、不安…をぬぐい去った。
「やっぱり野球しかない」。
◇もう一度挑戦
福岡の自宅に戻って律子夫人に言った。「もう一度、野球に挑戦するから時間をくれ!」。
9月からは鹿児島・指宿に出向き、走り続けた。地元の人たちが日替わりで伴走してくれた。泊まっていた温泉旅館では新聞すら目を通さなかった。この年10月10日に東京五輪が開幕した。オリンピック一色に染まった日本列島の南端で稲尾は再起を誓った。【佐竹英治】
「錯覚」が生んだ63年オフの空白
63年オフ、第1回欧州招待旅行へ出発する左から稲尾和久(西鉄)、、野村克也(南海)長島茂雄(巨人)、王貞治(巨人)
◇第6戦好投
63年に西鉄は5年ぶりのリーグ優勝を果たした。これがライオンズにとって最後のリーグVとなるのだが、同時に稲尾の栄光の時代にある意味ピリオドが打たれた時でもあった。日本シリーズは巨人との対決となった。西鉄が3連覇を果たした時とは巨人もチームががらりと変わっていた。ONがどっかと主軸に座り、川上監督が指揮を執った。結果は○●●○●○●。3勝4敗で4度目の日本一に輝くことはなかった。稲尾は開幕戦に先発し、ソロ本塁打1本の散発6安打完投で白星を手にした。第3戦は5回8安打7失点のKO。王手をかけられ迎えた地元平和台での第6戦は2安打に封じ込み6-0の完封勝利。エースの意地のシャットアウト劇で最終戦まで持ち込んだ。稲尾はシリーズ2勝1敗。連投にも耐え、必ずチームに白星を運んできた「鉄腕」なら最終戦も見事に飾ったろう。だが、4度目の栄冠をつかみ取ることはできなかった。最終戦に先発した稲尾は4回途中6安打6失点とノックアウトされ降板。チームは4―18という大敗に終わった。
◇巨人王封じ
「日本シリーズの第6戦ですごいピッチングをして、自分自身でも肩は治ったと錯覚したんだな。あのシリーズはワンちゃん(現ソフトバンク王監督)との対決もあった。1本足打法を封じるために、いろいろとタイミングを外すことなどを考えて臨んだ。ワンちゃんは投手の踏み出す足を見ていることが分かったので、ワンテンポ遅らせて踏み出した。ワンちゃんは抑えたんだけどな。シーズン後半に覚えた肩の痛みもなくなっていたし、自分では錯覚してしまったのかもしれない」。
シリーズ後にも多少、肩の違和感は残っていた。だが、稲尾はシリーズ第6戦での好投があっただけに自分自身で不安を取り除いてしまった。本来ならシーズン中にも治療に専念するほどの状態だったにもかかわらず、V戦線を走ったチームのために投げ続け、シリーズでも栄光よ今1度、という気持ちでマウンドに立った。誰でも過去を塗り替えることはできない。だが、今でも稲尾が悔やみきれないことは、この年のオフに治療を怠ったことだった。この年のオフ、稲尾は航空会社の招待旅行で巨人長嶋、王、南海野村とともに欧州に出かけた。「錯覚」の原因はこの欧州旅行にもあった。現地で風邪をひき、旅先のホテルで熱にうなされた。暮れから翌年の自主トレ開始まで体のだるさが続いた。風邪が治り切っていないのだろうと思ってしまった。翌年のキャンプイン。肩に引っ掛かりがあった。投げられない日が続いた。
◇欧州で風邪
「キャンプが始まって投げられなかった。前の年の11月からキャンプまでの3カ月の間にちゃんと意識して治療しておけば良かった。今でも思うけど、そうすればシーズンを棒に振ることはなかったのではと思う」。
“空白の3カ月”を埋めることはできなかった。キャンプで肩に異常を感じた稲尾はようやくオープン戦中に治療に出向いた。時すでに遅し、だった。64年シーズン、稲尾はプロ入り最大の屈辱を味わった。【佐竹英治】
63年逆転Vの裏で…暗転への序章
63年10月、リーグ優勝を飾り、 福岡市
◇62年青年内閣
栄光の日本シリーズ3連覇、そしてシーズン42勝の日本記録…。鉄腕稲尾を同心円に最強を誇っていた西鉄ライオンズは徐々に衰退期を迎えつつあった。62年シーズン、稲尾は57試合に登板し25勝18敗の成績を残したが、前年の42勝、目標に掲げるシーズン30勝からすれば不満の残るシーズンではあった。この年は中西監督誕生に合わせ、主力の豊田、稲尾がそれぞれ助監督、投手コーチを兼務するという「青年内閣」が誕生した。まあ、今のソフトバンクに当てはめれば、小久保監督、松中助監督、斉藤和投手コーチといったところか。いや、それよりももっと若い。すべてプレーヤー兼務である。主力が相次いで他球団に移っていた。球団運営が右下がりとなる中での窮余の策だったが、この青年内閣はうまく機能を果たさなかった。中西監督29歳、豊田助監督27歳、稲尾25歳である。
◇捕手に届かず
稲尾には前年の蓄積疲労もあったかもしれない。加えて5月にはベースカバーの際に軸足の右足を踏まれるアクシデントにも見舞われた。右肩にも違和感を覚えていた。5月の月間成績は0勝2敗。プロ入り後、登板のあった月で、稲尾は初めて負け越した。裏を返せばそれまで1度も負け越しがなかったわけだから、これまたすごい数字である。1年目の3月から実働44カ月目にしての初の負け越しだった。この年、またしてもチームはペナントを逃した。優勝は東映。3位だったが、実に16ゲーム差も離された。
翌63年、二女が誕生した。長女多香子が誕生した61年には42勝の日本記録。第2児の誕生を祝福するように西鉄は5年ぶりのリーグ優勝を果たす。豊田は国鉄に移籍、いよいよ西鉄は往年の姿を失いつつあったが、ロイ、ウイルソン、バーマという3人の助っ人外国人の活躍もあって覇権に成功した。稲尾は自身4度目となる70試合超えの74試合に登板し、28勝16敗、防御率2・54の数字を残した。最多勝と最多奪三振のタイトルを手にした。プロ8年目の通算成績が234勝。今季から米大リーグ・レッドソックス入りした松坂が同じくプロ8年で108勝の数字を残したが、倍以上の成績である。当然、鉄腕も少しずつ摩耗していた。
◇治療機会逃す
「チームも奇跡的に優勝したけど、オレにとって大きなポイントになるシーズンとなった。栄光の8年間からオレの人生の第2章というか、挫折の6年間につながる現象を油断したシーズンだった。9月の西宮での阪急戦だったと思う。ブルペンに入ったら1球目がワンバウンドした。もう1球投げたらまたワンバウンド。肩は痛くなかったけどキャッチャーまで届かない。その日は『今日はダメだ』と言って登板しなかった。でもその後も全然、球が走らなかった。そしたら8ゲーム差あった南海戦で登板指令があった。4連戦で1つでも負ければ優勝は絶望となる。負けたらそのまま別府に行って肩の治療をする予定だったんだけどな」。
チームは南海4連戦を3勝1分けで乗り切り、その後も順調に勝ち星を重ね南海とのデッドヒートに持ち込んだ。稲尾は終盤の南海戦で2戦連続完投勝利。治療どころかV戦線を投げ抜いた。またしても大逆転Vを成し遂げた。だが、投手稲尾にとっては暗転への大きな序章となっていた。【佐竹英治】
金田を抜いた?プラス40万円
球団納会の宴会ではしゃぐ稲尾和久氏(右端)
◇42勝の契約更改
42勝は単独でのシーズン最多勝利記録とはならなかった。41勝目を挙げたとき、稲尾には連盟から早々と「新記録」記念トロフィーが届けられた。今でもそのトロフィーは自宅に保管されているというが、稲尾は苦笑いで言う。
「41勝のときに新記録のトロフィーをもらったんだけど、41勝で終わっていたら、あのトロフィーは返さなくちゃいけなかったのかなあ」。
1勝違いでその人の一生も変わってしまう? そんなジョークでは済まされない1勝の価値である。とはいえ、42勝の日本記録は現在の野球界では考えられない数字であり、不滅の記録と言っていい。先発、中継ぎ、抑えが完全分業し、先発陣の登板間隔も中5日程度でローテーションされている現代野球では20勝すら希有(けう)であり、その倍以上となる42勝の数字は今後、絶対に破られることはないだろう。
シーズン最多勝の日本記録をつくった稲尾は、プロ野球選手の1つの“価値基準”でもある年俸でも「日本最高」になった。前年の800万円から1540万円でサインした。契約更改交渉は球団側と大きな駆け引きがあった。当時の球界最高俸は国鉄の金田正一投手と言われていた。年俸1800万円だが、うち300万円は10年選手ボーナス。球団側の実質1500万円が年俸という論法に稲尾は屈しプラス40万円の1540万円で判を押している。
「当時の金田さんは1800万円と言われていた。オレも42勝を挙げ、日本記録を作ったんだから金田さん以上の年俸をもらおうと食い下がった。『1800万円以下ではサインしません!』と西代表に言っていたんだが、向こうの方が一枚上手やったな。300万円はボーナス分だから、1500万円が金田さんの実質年俸と言われて。40万円だけプラスしてもらって結局、1540万円でサインした。うーん、今考えてもオレの作戦失敗やったな」。
◇今ならいくら?
当時の時代背景、物価などを考えてこの数字が高いのか安いのかは単純に今とは比較できないだろう。確かに今年、海を渡った松坂(レッドソックス)には60億円もの値が付いた。日本球界でも複数年で10億を超えるような選手は数多い。球界に「もし」は禁物だが、稲尾が今現在いたとしたら、どのくらいの年俸になるのだろうか? ナンセンスを承知でソフトバンク竹内孝規COO(46)に聞いてみた。
竹内COO あれだけの活躍だから、まず想像がつかないというのが本音。球団の経営の実務では限界があるのではと思う。まあ、ご本人に『いくらか決めてください』としか言いようがないですね。本人が希望する額を出すしかないでしょう。
プロ野球選手の年俸が高騰すればするほど、この手の話は、選手、球団双方に聞いてみたいものである。【佐竹英治】
35勝権藤「足元にも及ばない」
61年4月19日、巨人を完封し3勝目を挙げた中日の権藤博
◇61年セ新人王
稲尾が日本記録タイの42勝を挙げた1961年(昭36)シーズンはセ・リーグにもとてつもない投手が誕生していた。この年、社会人のブリヂストンタイヤから中日に入団した権藤博投手(現野球評論家)である。稲尾と権藤は1歳違い。稲尾が入団1年目の56年シーズン。当時、佐賀・鳥栖高のエースだった権藤は夏の大会終了後、西鉄の招きでライオンズのテスト練習に参加している。権藤は結局社会人に進んだが、地元の西鉄に入団していたら、と考えると恐ろしいチームが出来上がっていたかもしれない…。
◇社会人でマネ
さて、権藤は新人ながら69試合に登板し、35勝19敗、防御率1・70の数字を残し、輝かしいばかりのルーキーイヤーを飾った。新人王に加え、沢村賞、最多勝、最優秀防御率のタイトルを手にした。登板イニングは稲尾を上回る429回1/3である。「権藤、権藤、雨、権藤。雨、雨、権藤、雨、権藤」-。連日マウンドに上がる権藤は、ファンからそう呼ばれた。プロ1年目にして過酷ともいえる登板、イニング数の支えともなったのは郷土の先輩であり、投手として尊敬すべき稲尾の活躍があったのかもしれない。
権藤氏 稲尾さんは「神様、仏様、稲尾様」だろ。オレは「権藤、権藤、雨、権藤」-。向こうは神様、仏様がついている。比較にならないんだよ。1年目のシーズンは稲尾さんとほとんど同じような日に投げている。でも、42勝して14敗。オレは35勝で19敗。勝利は別としても、稲尾さんは負けない。エースの条件だよな。まして彼がすごいのはチームのために投げるというところ。優勝争いになったら稲尾、稲尾。いやな顔ひとつせずに投げたんだから。稲尾さんが42勝を挙げたシーズンは、西鉄も優勝がかかっていなかった。だから逆に言えば、過酷な優勝争いのないところで登板すれば、稲尾さんは42勝は軽くする、ということですよ。
◇「最高の投手」
権藤は高校3年の時、初めて西鉄の寮で稲尾の姿を見た。パンツ1枚でのっそりと出てきた鉄腕に「これが天下の稲尾か、と思った」(権藤氏)という。社会人4年間は稲尾の投球動作のマネをしてきた。権藤の左足を大きく上げるフォームも稲尾をマネてのものだった。権藤は2年目にも30勝をマークしてるが、登板酷使から4年で投手生命を絶っている。現役を退いてからは中日、近鉄、ダイエーの投手コーチを務め、98年には横浜の監督として日本一に輝いた。投手育成には自身の経験もあって投げすぎを戒めるが、本意ではない。投げる時期に投げないと成長しないことは訴える。
権藤氏 稲尾さんのすごいところは人間の大きさというのかなあ、投球もそうだけど、人としてのスケールの大きさ。西鉄での酷使がなかったら、金田さんの400勝を抜いていたんじゃないかな、と思う。オレが見てきた中で日本最高の投手。人間性も含めてね。
普段は辛口の権藤だが、稲尾の話題となると称賛の言葉が続く。「褒める? 褒めるなんて失礼な言葉だよ。オレは足元にも及ばないんだから」。稲尾が日本記録をマークしたときのセ・リーグ最多勝男の鉄腕評である。ちなみにこの話を稲尾に振ってみると、ただただ照れ笑いを浮かべるだけだった。【佐竹英治】
◆権藤博(ごんどう・ひろし)1938年(昭13)12月2日、佐賀県生まれ。鳥栖高からブリヂストンタイヤを経て61年、中日に入団。1年目に35勝19敗、防御率1・70と大活躍し、新人王、沢村賞に輝く。酷使がたたって65年に内野手に転向。68年に引退した。通算成績は210試合に登板し82勝60敗、防御率2・69。中日、近鉄、ダイエー、横浜のコーチを経て98年横浜監督に就任。同年横浜を38年ぶりの日本一に導いたが00年で勇退した。
新記録42勝のはずがタイ記録
61年に42勝を挙げ、最多勝、防御率、奪三振1位に輝いた西鉄稲尾和久の投球フォーム
◇連盟回答は40勝
南海杉浦の38勝をクリアすると、あとはどれだけ稲尾が勝利を伸ばすかに注目が集まった。だが、稲尾本人は日本記録については無頓着だった。当時はまだ個人記録などの数字が不明確なところがあった。特に1リーグ時代の数字はなおさらだった。稲尾が杉浦のリーグ記録を抜く39勝をマークした直後、球団側を通じて日本記録の調査を依頼した。連盟からの答えはスタルヒン(巨人)と野口二郎(大洋)の40勝が日本記録ということだった。
稲尾は10月7日の近鉄戦で救援登板し、2回を無安打に抑え勝ち投手となった。日本記録の40勝に並んだ。勢いに乗って翌8日の東映戦は先発登板。9安打を許したものの2失点(自責1)の完投勝利で“新記録”となる41勝目を手にした。
「あのシーズンはとにかく杉浦さんの記録を抜きたい、と思って投げた。前年に左親指のけがもあって20勝に終わっていたし、連続30勝も途切れていたからな。杉浦さんの記録を抜いたときは、じゃあ次は日本記録だ、と周囲が騒いでいた。球団を通して連盟に調べてもらったらスタルヒンと野口さんの40勝が日本記録ということだった。近鉄戦で勝って40勝したとき、じゃあ、あと2勝ということになった。1勝上の新記録よりもうひとつ勝利があったほうがいいだろう。まあ、連盟に記録を調べてもらったといっても不安はあったし、同時に金田さ